OLから女優に転身で壁超え! chapter 2
<家族編>
第二回
永い時を経て乗り越えた壁
ある晩、母と麻世は、部屋を探しに街中をさまよっていた。
夜の帳がおり、無数の虫が街灯の光に救いを求め、羽を休めていた。
そのわずかな灯りに照らされた小さな看板に眼が留まる。
「空き部屋あり」
母は、意を決し看板を掲げた家の門を叩いた。
80歳を過ぎているだろうか?老婆が顔を出した。
「この看板を見たんですが」
老婆は、ふたりの顔を交互にじろじろと遠慮なく見つめ、答えた。
「ああ、私が大家です。今すぐ、前家賃を払えるなら貸してやるよ」
アパートは、6畳3畳の間取りで風呂はない。
ふたりの部屋の薄っぺらい板一枚の扉を開けると、薄暗い廊下を挟んだすぐ目の前に共同トイレが設置してあった。そこはボットントイレで、悪臭が部屋の中まで漂い、日々、ふたりを悩ませた。
そんな母娘ふたりの生活ではあったが、麻世は祖父母や母に深い愛情を注がれ、すくすくと成長した。
しかし、相変わらず心に影を落としていたのは、父の存在。
顔も見たくなかった。父は、ただただ嫌悪の対象でしかなかった。
そんなある日、事件が起きた。
麻世が、いつものように朝、学校に着くと、職員室にくるようにと放送があった。
何事かと担任教師のもとに行くと、父が交通事故に遭った、と連絡があったという。
父が死ぬのか?
複雑な心境で病院に駆けつけると、母が病室の前で苦渋に満ちた表情で立ち尽くしていた。
「どうしたの?」
「・・・」
麻世が病室に入ると、愛人の美由紀と父が、それぞれベッドに寝ている。
ふたりが乗った車が、トラックに衝突されたのだが、幸い、脚の骨折だけで命に別状はないという。
ふたりの顔を交互に見る。
焦燥しきった表情で、父が甘えるように母に言う。
「痛えよー」
母がこらえ切れず、嗚咽を漏らす。
すると美由紀は、母に向かって怒鳴った。
「泣くんなら出ていけー」
まるでのら犬を追い払うような言い草だ。
麻世は全身の血が逆流するのがわかった。
「なんで!そんなこと、よく言えるわね!」
病室を飛び出し、廊下を全速力で走りだした。
愛人が、父が、許せなかった。
これまで父は母に離婚しようと言ったことがなかった。
母もそうしなかった。
なぜなら、麻世が就職するとき、不利になるのではと思ったからだ。
1980年代初頭、まだ、小さな差別が残っていた。
企業は採用時、学生の家庭を調べ、離婚した家の子どもとわかると、家庭環境的に問題がある子と判断し、不採用とした。
しかし、時は過ぎ、麻世は百貨店に就職。
大阪で働き始めると、転機が訪れた。
父が母の名義でお金を借りている、と母がぼやいていたのだ。
麻世は母に迫った。
「もういいかげん離婚したら?」
ふたりは正式に離婚。麻世が20歳のときだった。
離婚してからも何かと理由をつけて家に来る父。
「もう離婚したんだからみっともない、来るな」と母は追い返す。
その時、父は
「お前と一緒にいたらこんなにお金に苦労しなかったのに」
と、無責任な言葉を吐露したのだ。
しばらくして人づてに、父はお金のことでにっちもさっちもいかなくなり、名古屋に行ったと聞いた。数十年経つと、ホームレスになっているのでは?と父の晩年を案じた。
2000年を数年過ぎたころ、父が亡くなったと風の便りに聴いた。
どこでなぜ亡くなったのかは、わからない。
麻世は、そんな子ども時代を振り返ってこう話す。
「私はあの頃、一見不遇な人生のようでしたが、とても幸せでした。決して裕福とは言えませんでしたが、みじめな思い、ひもじい思いをしたことがないのです。それは母や祖父母から深い愛情を注いでもらっていたから」
母・晶子は、満州で材木会社を経営する両親のもとに生まれた。
学校に上がると成績優秀で、両親にとっても自慢の娘に成長した。
戦争が終わり、日本に引き揚げてから、晶子は当然、進学するものと考えていた。
しかし、戦争で両親が亡くなり進学は叶わなかった。
彼女は、大人になってからもその悔しさを忘れられなかった。
進学への挫折、泰明との結婚の失敗・・・。
思い通りにいかない人生。
その後半を、全て我が一人娘に懸けたのだと、麻世は子どもながらに感じていた。
そんなわけで、麻世はやりたいということは何でもやらせてもらった。
そろばん、クラシックバレエ、ピアノ、習字・・・。
当時の一般家庭ではまだ珍しかった塾にも通った。
そんな環境からか、小学校の6年間はオール5、スポーツもできて優等生であった。
自ずと、麻世はとても自己肯定感が高い人間に成長していく。
自己肯定感が高い人間を育んだ理由は、もう一つあった。
小学生のころ、週3回、通っていた塾でのことだ。
塾の先生は、ある宗教を信仰していた。
もちろん、生徒に勧誘をしたりはしない。
ただ、授業の始まりと終わりに、いつも3回ずつ子ども達にこんな言葉を唱和するように命じた。
「私は神の子仏の子。なんでもできる強い子よい子」と。
麻世は、毎回、意味もわからず唱えていた。
しかし、思い返せば、その言葉が潜在意識に入っていったのでは?と考えるのだ。
「子どものときのすり込みは、プラスの言葉もマイナスの言葉も潜在意識に入りますからね。このすり込みが、私を『なんでもできる子』と自信を持つ人間にしてくれたのでは?と思うのです。そんな環境だったので、私はとても幸せでした」
顔も見たくないと嫌悪した父。
しかし数十年の時が過ぎると、父に対する憎しみは、いつしか消えていた。
そして、感謝さえ覚えるようになったのだ。
「小学生のとき勉強ができた私は、正直、成績の悪い子を馬鹿にしていました。母や祖父母に大事に育てられ、我慢ということもしたことがなかった。だから、そのまま成長したら鼻持ちならない傲慢な女性になっていたことでしょう。でも、父のせいで住む家がなくなったり、愛人の嫉妬心に恐れをなしたり、罵詈雑言を聞かされたり、父の非情さを憎んだりと、色んな挫折や悲しみ、喪失感があったからこそ、人の痛みがわかるようになったと思うのです。
そして、20代で女優の道に進んだとき、その経験が役立ったのも驚きでした。悲しい、嬉しい、苦しい、憎い・・・演じるうえで欠かせない感情表現は、ただ過去を思い出せばよかったから。
そういう意味では、父に感謝しています。父は、私を成長させるための試練=壁だったのだと。それがわかった瞬間、壁を越えたんですね」。
続く
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